朝(あした)に道(みち)を聞(き)かば夕(ゆう)べに死(し)すとも可(か)なり

三省堂ワードワイズウェッブより

朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない。

一般には上記の[意味]のように理解されているが、異説はかなり多い。

その一つとして、この一句は孔子(こうし)が死に瀕したときに

述べた言葉という考え方がある。それによると、

孔子は死ぬことを気にするよりも、現実の生きているうちに

真理を学ぶことが重要であると弟子たちに説いたということである。

同じ孔子の言葉の

「未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らんや」

〔『論語』先進(せんしん)〕のような考え方で、むしろ生きていることに

忠実であれということを強調していることになる。

しかし一般的には、死を間近に控えての孔子の悲愴
(ひそう)な考えを述べたもの

という理解がなされている。

伊藤仁斎(いとうじんさい)は、その著『論語古義(ろんごこぎ)』の中で、

「ある人が、『朝に真理を聞いて夕方死ぬというのでは、

少しせわしなさすぎるのではないか。』と尋ねたのに対し、『そうではない。

人間として道を聞かなければ、生きていても益がない。

だから孔子が、朝、道を聞いて、夕方死んでもよいとされたのは、

どうしても真理を聞かずにはおれないという

つきつめた気持ちをお示しになったもので、

決してせわしないなどということはない。』と答えた。」と解釈している。

(しん)の劉宝楠(りゅうほうなん)の『論語正義(ろんごせいぎ)』には

「朝、道理を聞いて夕方死んでしまい、

学問が途中で挫折(ざせつ)したとしても、

道理を聞くことなく死んでしまうよりはいい。」としている、

この一句が、孔子が死を前にして弟子を励ました言葉か、

それとも飽くことのない学問追求の態度を表す言葉か

はっきりしないが、いずれにせよ道を求めることを強く

主張しているものであることには変わりがない。

これを孔子の積極的な姿勢として受け止めるか、

死を前にした悲愴な感慨と受け止めるかは、

読者の主観によるほかはあるまい。

解釈はいろいろある。