人をみて法を説けない理由
哲学を人間の生き方についての考え方・思想ととらえる
ならば、人の数だけ、哲学はある。
仏教を、哲学ととらえるならば、
仏教もまた人の数だけあることになる。
自分自身、5年位で200冊以上の、仏教書
を簡単なものから、難解なものまで読みました。
よくキリスト教で、「ルカ伝第何章のなんとかではこう言っている」
みたいに知識を、見せることが
信心深い事の証拠なのだと考えるのならは゛
それは、無意味だと思う。
(欧米では知識の多さと信心の深さは比例している)
ましてや、私が考えるところの仏教においては、
仏教の種類は人の数だけあって、
空海や親鸞や日蓮も自分の、仏教解釈を発表し、
それに、賛同する人たちがその宗派をつくっている。
と私は、解釈している。(仏陀の発見が、核にはなっている)
基本的に、私は難しい言葉を使い、仏教を説明することを好まない。
しかし、文章力の不足、また、語彙力のなさが
原因で「人をみて法を説けません。」というブログを過去
2回ほど書いてます。仏教の話をすると必ず
「上から目線」と誤解される。「仏陀がおっしゃっている事であって」
私が言っているのではない。
一つ思うに、小学生の5年生にわかる様に、説明できる
能力を身につけるように努力したい。実はチョツトやってみた。
わかった。小学生の5年生にわかる様に、説明できるという事は
自分の中で咀嚼(噛み砕くこと)し、消化して、完全に自分のものに
しなければできない。
しばらく、仏教について書くことはやめることにしました。