フランスの哲学者サルトルと仏陀の考え方

 
サルトルの文章は
 
読み始めから、難しい言葉の羅列が多いのですが
 
全体のサルトルの考え方の変遷は、
 
まさに仏陀の考えに似ていると
 
私には思える。偉そうに書いてますが
 
結局、サルトルを読み込んだ訳ではありません。
 
こんな文章は、私の読解力では太刀打ちできないのです。
 
下記はウィキペディアより引用
 
サルトルは自らのアンガージュマン<engagement>(社会参加)の
 
実践を通してしだいに、社会的歴史的状況に対する認識を深め、
 
マルクス主義を評価するようになっていく。
 
存在と無に続く哲学的主著弁証法的理性批判』は、
 
実存主義(あるいは現象学存在論)を
 
マルクス主義の内部に包摂することによって、
 
史的唯物論の再構成を目指したものだった。
 
なぜ、そのような作業が必要だとサルトルは考えたのか。
 
弁証法的理性批判』序説の『方法の問題』によれば、
 
ソ連をはじめとする共産党の指導者たちが、
 
マルクス主義理論を教条化することによって、
 
それにあわない現実を切り捨てていったからである。
 
「彼らは教条を経験の力の及ばぬところに置いた。
 
理論と実践の分離はその結果として、
 
実践を無原則な経験主義に変え、
 
理論を純粋で凝結した“知”に変えてしまうことになった」
 
 
しかし、一つだけ
 
認識は、悲観主義者で
 
意志は、楽観主義者である。
 
この点において二人(サルトル仏陀)に共通点はある。
 
サルトルの葬列に、パリ市民5万人が参列。
 
ここにすべてが現れていると私は思う。